爪・発作・罪悪感

 

今日は平和な話を。

 

 

【爪】

 

爪切り魔な私は、1週間とあけず爪を切ります。

 

おととい、そろそろ爪切りたい、と思ったのですが

そろそろ満月だから満月後に・・・

 

と2日も我慢している今です。もう限界を突破しております。

指先にイマイチ力が入りません。

 

明日の朝まで我慢できるかな。

 

あ、満月を超えてから切るのは、伸びが遅くなるからです。

どっちみち1週間以内に切るのだから同じことだったかな。。。。

 

 

 

【発作】

 

 

久しぶりに喘息発作を起こしました。

軽発作なのでどうってことないと思っていたのですが、

発作を起こすこと自体は久しぶりすぎて忘れていました。

 

軽かろうが、発作は発作だということを。

 

喉の粘膜の状態がだいぶよろしくありません。

ずっと熱いです。

そして体温も若干上がっています。

 

そういえば私の平熱は長らく37℃でした。

普通の平熱に「下がった」のは元気になった証拠、

だったんだな。

 

呼吸器が喘息仕様になっているので

今までとは違うレベルで感染に警戒せねば。

今うつったらヤバイ。

 

 

 

【3年前】

 

忘れられない3年前の2月末。

everything`s gonna be fine

という明確なメッセージを二重に受け取り、

その意味を翌日思い知って過去の追体験をし、

 

罪の重さに存在のすべてを押しつぶされそうになった。

 

どうして過去の(別の)人生を思い出さなきゃならないのか。

思い出してどうするのか、潰されろとでも?

 

ものすごく長く苦悩したような気がしてたけど

3日くらいでケロリと浮上したんだったっけな。

 

まあ、いいか。

 

だって、everythin`s gonna be fine だからね。

 

 

 

ああ~爪がキモチワルイ

 

 

 

魔法発動

 

私は魔法をかけられている。

 

本気で術をかけた、とご本人が言っているので間違いないだろう。

 

 

 

 

その魔法が7年経った今も有効で、

もしかしたら死んでも解けないかもしれないと思う出来事があった。

 

 

 

本業である占いの依頼が完了したのは、結局2/7だった。

予定より2ヶ月も伸びたのは依頼数の増加だけじゃないことはわかってる。

 

それよりも。

完了したその日の深夜、Amazonのオススメに出てきたのが

かつての師匠の著書だった。

 

かつての師匠であり、私にとっては永遠の師匠だと勝手に想っている方。

 

内容を知って驚く。なぜなら、

正式な手続きを踏んで許可を得た者だけが触れることのできる文書群が

出版されていたから。

 

私は門前の小僧であり、正式な手続きを踏んでいないので、

一生目にすることはなかろうと思っていたのに・・・・。

 

 

 

ここで3つのことが思い当たる。

 

まず一つ。仕事が終わったそのタイミングで現れたこと。

Amazonなんて何度も開いているのに、そのタイミングで現れる?

出版されてから1ヶ月以上経ってるのに。

 

二つ目。前日私はビジョンを視ていた。

その師匠の元で偉大に成長して、今や達人たちを導く立場にある姉弟子に

自分が径に戻ること、正式な手続きを踏んだことを報告しているビジョン。

まさかそんなわけないだろ、とその時は思っていた。

 

三つ目。今わたしは全く別の方向の学びを検討している。

それは4月から開始されることになるのだが、

師匠の出版された本を元に再び径を歩むのであれば

春分からスタートするのが好ましい。つまり、時期がかぶる。

どちらか一方しか選べないだろう・・・両方はちょっと無理だ。

 

 

 

 

ビジョンで報告していた姉弟子とは別の姉弟子が、

私に魔法をかけた張本人。

何があってもかならず径に戻ってくるように、と。

 

ほとんど呪いなんじゃなかろうか。。。イヤじゃないが←

 

しかし私が径を外れる際の決意は並大抵のものではなかった。

どんなに引かれたところで、そう簡単には戻れない。

 

戻りたくもない。

戻りたくもないけれど戻りたくて仕方ない。

 

けれど、正式な手続きは踏みたくないと、やはり思っている。

そこは今も変わらない。

 

なぜなら、人生のすべてを径に捧げることになるからだ。

それがイヤなのだと自覚しているから、戻らないんだ。

 

それなのに。

 

 

 

 

さあ、どうするのか。

まだ時間はある。

よく考えろ自分。

 

 

 

 

径を離れた時は、修行している場合じゃなかった。

あれからもう3年以上経って、状況も変わり、私も変わった。

 

そういえば・・・。

 

径を離れるきっかけになったのは家系からの要請だった。

先月も稲荷社を通じて家系からの要請があったばかりだ。

なんなんだこれ。

 

 

 

 

どっちみち、正式手続きは無理だろう。

いろいろ条件があるが、決定的に一つ従えないルールがあるから

その1点において無理なのだ。

 

それに、エグレゴレの庇護下におかれることを喜べない。

どうしても、イヤなんだ。

安全であることがどんなに大切か、身をもって知っているけれど

安全だと体験できないことがあることも知っている。

 

じゃあ、一人でやるしかないよね?

 

・・・・・

 

その決意は、簡単にはできない。

 

思い立ったが吉日、考える前にまず行動、の私でも、できない。

 

それほどに薔薇の径は険しく、輝かしい。

 

 

太陽と月の統合の再編成

 

ひとつ記事を書いて、お蔵入りにした。

 

それが、たしか3日前。

何を書いたかもう忘れてしまった。

 

 

 

 

そして今日。

 

ちょっと前に気づいたことをメモがてら書いておく。

 

 

 

 

 

2015年の秋分の空が教えてくれたこと。それは

 

『太陽と月を統合せよ』

『太陽に向かって一直線』

 

2020年の2月、約1年前に一直線のことを思い出したっけ。

 

年末に仕事に励んでいるときに気づいたこと。

太陽と月の統合とは、2015年当時は男性性と女性性のことだと

思い込んでいたけれど、

そして2016年には実際にそれに似たようなことが自分の身に起きたけど

それだけじゃなかったみたいだ。

 

空が投げかけてくれる気づきとは多層なものなんだな。

 

太陽とは、おもて

月とは、うら

 

表と裏の自分の統合。ぶっちゃけると公私混同ってことだがww

 

公私混同できる仕事ってまさに天職なんだろうなとも思う。

 

きっちり公私を分けられる仕事が羨ましいと思ったこともあったし

その方がいいんじゃないかとも今でも思うけれど

 

私には公私混同が合っている。

生きることと働くことは同じ。

 

昔は「家族サービス」って言葉が大嫌いだったんだ。

なんだそりゃって思うじゃん。

サービスとかどんだけエラソーなのよ、って思ったから。

 

けど、生きることと働くことが同じになると、

家族の入り込む余地がなくなるんだよね。

なくなるけれど、それでもなんとか家族を自分の人生に割り込ませる。

だから「家族サービス」なんて尊大な単語が生まれた、のかもしれない。

 

私は家族サービスなどと1フェムトも思っていないけれど

義務と奉仕という感覚はだいぶある。

 

男女の性差による苦しみは乗り越えつつある。

そしたら、太陽と月は意味をかえて、

はたらく太陽といきる月の統合になった。

 

これがもっとうまくいけば、次はまた違う意味合いがでてくるだろう。

たとえば、生命の木でいえば、イエソドとティファレトになるので

ここが統合されるということはパロケトの解放につながる。

意識の決定的な変容がまた起こるのか。

 

 

 

 

と、その前に

そうなると『太陽に向かって一直線』の意味も変わってるんだよな。

生きることはもちろんだけど、仕事にまっしぐらに向かっていくことで

統合は加速される。つまり、仕事に励むということで。。。

 

これは2021年のテーマでもある。

今年は今までの倍はたらく。そう決めた。

なぜか、できるような気がしたし、やるしかないと思ったから。

(そしたら娘が私立に行きたいなどと言い出す。タイミング良すぎだ。)

 

そうしなければならない衝動。

太陽に向かって一直線、仕事にまっしぐらになることは

自分の内へ内へと向かっていくことになるのだろうとも思っている。

 

これはどんな仕事でもそうなのかな?

占い師というのは人の外側をみているようで深く内潜する仕事だから

自分自身もそうなるだけなのか。

すべての仕事に共通することなのか。

 

それは、わからん。

 

 

 

 

少なくとも今の自分は仕事をすることで自分自身を掘り下げている。

人に尽くしたいと思っていても、はたらけばはたらくほど

自分のためになっていく。これでいいのかと思うくらいに。

 

これをフィードバックともいうが。

 

人生は裏表がないメビウスのようだよ。

 

 

護りか監視か

 

年末年始に仕事の手をとめて

いつもより少しリラックスして過ごしていると

 

自分が内的躁鬱状態にあることに気づく。

 

なるべく長生きして楽しく過ごしたいと思う日常の

ふとした一瞬に

生きていることがどうしようもなく辛くなる。

 

両極を往復しながら

中点を探すかの如く

 

揺さぶりは日に日に激しくなっていく。

 

 

 

 

いくら自分自身が多元的存在と自覚したところで

肉体をもったままこの世界を生きていては

どうしたってタイムラインに乗るしかなくて

 

それが、

この上なくもどかしく苦しい。

 

 

 

 

 

地蔵菩薩の如く命を全うしたいのは嘘じゃない。

本当に、そうありたい・・・というよりは

自分はそうしているのが一番自然なのだと感じている。

 

私は、やっぱりヒトが愛おしいから

 

もう二度と見捨てたくはないんだ。

 

そんな風に思うこころの源は

神の記憶なんじゃないかと思うけれど。

 

案外神とか女神と呼ばれる存在は

ヒトからそう離れていないと思う根拠は

こういうところにある。

 

我ら地球のニンゲンの特殊性は

物質に自らを縛り付けているところにある。

神々はそうしていないだけなんじゃないのかって

思ってる。

 

 

 

 

そしてここのところ

再び急浮上してきている疑問がある。

 

なぜ、ここまで厳重に守られながら

わざわざ地球に生まれることにしたのか。

 

羊膜に包まれたまま生まれるなんて

今の日本のお産事情だとあり得ないことが

半世紀近く前にはまだあった。

 

呪に使われる「名前」はつけられたものの

非常に曖昧で、だれも読めない。

本人でさえ本名を呼ばれると違和感がある。

 

 

普段は親や夫でさえ私を本名で呼ばないし、

同級生など、姓も名も正確な読み方を知らない人が大半。

当時は気づかなかったが

私が子どもの頃は苗字さえ正式な訓読みでなく

通常は音読みにして名乗っていたものだから

親戚が(親戚なのに)姓を間違えて認識していた始末。

 

実家は表札を作ったものの出したことがない。

結婚後は表札を作ったことがない。

当然、今まで表札のある家に住んだことがない。

 

今思えば異常なことばかり。

 

そこまで厳重に守られてまで

一体何しにここに来たんだ?って考えるだろう。

 

ここ地球はハイリスク、ならば、生まれなくてもよかった。

それでも生まれてきて内的躁鬱に引き裂かれそうになってる。

 

なんのために?

 

 

 

 

 

そんな私が、

2016年に夫の盾から自立することになり、

2017年には名前による契約が果たされる時が来た。

2018年には顔を晒してみた。名前よりはマシだった。

でも2019年には本名も読み仮名も晒した。

 

これ、とんでもない冒険なんだよ。

 

そして2020年は表札を作る話が出たが立ち消えた。

表札は名前と居場所の特定だからリスクが大きい。

 

けれど、このリスクテイクは必要だろうと思う。

なぜなら・・・もたらされるものがあるからだ。

それを私は受け取らなければならない。

 

 

 

 

もしかしたら

庇護膜を突き破れば疑問の答えがわかるかもしれないから

今年こそ表札を作ってみようと考えている。

 

外側から厳重に守られているならば

内側から突き破るしかないのだから。

 

躁鬱も少しは軽減されたらいいな。

 

死の向こうに憧れてる場合じゃないんだよ。

 

 

 

 

 

私のもう一つの名前、K。一文字(たぶん)。

 

もしそれが本当の名前だったとしたら、

どこまで厳重なんだって話になる。

 

そして、今この人生は仮の人生だってことにも。

 

それは・・・ちょっとイヤだな。。。

 

どこまで思い出せばこの「仮の生活」から

抜け出すことができるのか。

 

 

 

 

 

「1人」ってなんなんだ。

 

 

 

 

 

 

急激な変容が起きていた

 

(11/23~24にかけて)

 

 

 

落ち着かない。

 

なんだか落ち着かないと思ったら

月と海王星が合していた。

 

月と海王星の浮遊感を体で感じているせいなのか

体の平衡感覚がちょっとだけおかしい。

 

 

 

そういえば新嘗祭だったっけ。

後から気づく。

 

そのせいもあるのかな。

なんだかんだ日本人だしな。

 

 

 

 

 

朝起きて、星好きな友人たちが口々に

昨日は寝付けなかった、

朝まで眠れなかった

寝たけど夜中に目が覚めてしまった、

と言っていたので

 

きっと多くの人が「何かヘン」だったんだろうな。

 

 

 

 

昼になってもまだ

手のひらと足の裏の感覚に違和感が残る。

 

なにが起きていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

落ち着かない。

 

文章を生み出せない。

 

警戒警報が鳴っている(心の中で)。

 

 

 

 

なんの警戒なのか。

 

 

 

 

こんな特殊な時代に

星読みをやっている因果ってなんだろう。

 

 

 

 

 

修行の再開。

 

そうしなければならない衝動を抑え

今は仕事をする。

 

 

 

 

はやく

 

はやく

 

はやく!

 

 

 

何に急かされてる?

 

修行を再開させるために

一刻も早く年末仕事を終えねばならないのに。

 

一向に文章が生み出せない。

 

修行以前の問題。ピンチ。

 

 

 

そうこうしているうちに月は進み

 

満月まであと1週間を切った。

 

宿る意識

脳内の整理のために書き留めておくもの。

 

 

 

人格A~F+1について。

 

そのなかに「良心」の象徴が一人、いた。

彼女は赤ん坊を守り切りたくて逃げに逃げた。

 

しかしその他の人格たちに赤ん坊を奪われ

殺されてしまった。

 

良心本人も斃れた。

再起不能状態はしばらく続いた。

 

 

 

 

 

良心は高次の天才

赤ん坊は魂

 

まるで核だ。

良心と赤ん坊でセットの原子核

 

あれ?でも水素には中性子はないか。。。。

まあいいか。

 

 

 

 

 

他の人格は電子。

 

宿る意識たち。

 

そして、たぶん記憶たち。

 

記憶たちが練り上げた象徴人格。

直接的に体験してきた記憶ではなく、

体験と記憶から練り上げられた疑似人格。

 

それが、宿る意識。

 

 

 

 

魂や良心は間違いなく「自分」自身。

 

通常協力しあうはずの

魂と意識たちが殺し合いになってしまったのは

 

意識がエゴと化し

魂が目覚めたから

 

だろうな。

 

 

 

 

エゴにとって魂の目覚めは都合が悪い。

 

23才のあの時

意識は居場所をなくしていた。

 

魂が幅を利かしてきたために

だんだんと隅に追いやられ、

居場所がなくなっていく危機を感じた。

 

エゴの抵抗のすさまじさ。

 

 

 

本当は、意識たちは

魂に吸収されていけばよかったんだ。

 

でも、地球の人間社会に生きる者として

エゴを失うわけにはいかなったのだろうと思う。

 

ある意味、エゴが自分を守っていたのだから

失うわけにはいかなったのだろう。

 

 

 

 

 

魔界に転落したとき、

 

赤ん坊が(無)意識で、

人格たちが分割した魂だとおもっていたけれど

 

真相は逆だったんだ。

 

だから良心は魂を守った。

それが真の自分だからだ。

 

 

 

 

 

うん。だんだんわかってきた。

 

殺意

殺意とは

 

激情ではない

 

怒りや憤りでもない

 

「滅する」という静かな決意

 

決意という強い意志すらないかもしれない

 

 

 

 

さて

 

私が自分の奥底に沈めていた殺意に気づいたのは

 

かれこれ3年以上前のことだけれど

 

ここにきてまたしても蠢いている

 

 

 

この暴れる火炎をどうしたものか

 

 

 

「二度と過ちを犯さぬよう・・・・」

 

 

 

じゃあ、今のこの人生は

 

いつ何時暴走するかわからない火炎を

 

意志によって抑え込むためにあるのか?

 

冗談じゃないや。。。。

 

 

 

 

体の内外で回転し上昇と下降を繰り返すエネルギー

 

無秩序の暴れまわる火炎のような滅ぼす意志

 

いったい何をやっているんだろう

 

抑え込んでおくのは疲れる とても疲れる

 

 

 

涼しい顔してその実激しく消耗しているから

 

一日の大半を眠って過ごす

 

意識を失って眠るのはイヤなものだ

 

けれど意識が保てない

 

うっかりすると動いている最中でも気絶してしまう

 

危なくて仕方ない

 

 

 

 

二度とあんなことはするまい、と

 

記憶が噴き出したときに固く誓ったのが嘘みたいに

 

今は

 

殺意を

 

解放しようとしている

 

そして 意志が決まれば容易いことを 知っている

 

 

 

これ以上はやめておこう

 

今 殺意を放つことは

 

記憶たちへの裏切りになるから やらない

 

道徳とか倫理とか 尊厳とか

 

そんなものはブレーキにはならない

 

なろうはずがない

 

 

 

 

今私をとめられるのは私だけだ

 

私の記憶たちだけだ

 

 

 

 

自分のために、生きろ