護りか監視か

 

年末年始に仕事の手をとめて

いつもより少しリラックスして過ごしていると

 

自分が内的躁鬱状態にあることに気づく。

 

なるべく長生きして楽しく過ごしたいと思う日常の

ふとした一瞬に

生きていることがどうしようもなく辛くなる。

 

両極を往復しながら

中点を探すかの如く

 

揺さぶりは日に日に激しくなっていく。

 

 

 

 

いくら自分自身が多元的存在と自覚したところで

肉体をもったままこの世界を生きていては

どうしたってタイムラインに乗るしかなくて

 

それが、

この上なくもどかしく苦しい。

 

 

 

 

 

地蔵菩薩の如く命を全うしたいのは嘘じゃない。

本当に、そうありたい・・・というよりは

自分はそうしているのが一番自然なのだと感じている。

 

私は、やっぱりヒトが愛おしいから

 

もう二度と見捨てたくはないんだ。

 

そんな風に思うこころの源は

神の記憶なんじゃないかと思うけれど。

 

案外神とか女神と呼ばれる存在は

ヒトからそう離れていないと思う根拠は

こういうところにある。

 

我ら地球のニンゲンの特殊性は

物質に自らを縛り付けているところにある。

神々はそうしていないだけなんじゃないのかって

思ってる。

 

 

 

 

そしてここのところ

再び急浮上してきている疑問がある。

 

なぜ、ここまで厳重に守られながら

わざわざ地球に生まれることにしたのか。

 

羊膜に包まれたまま生まれるなんて

今の日本のお産事情だとあり得ないことが

半世紀近く前にはまだあった。

 

呪に使われる「名前」はつけられたものの

非常に曖昧で、だれも読めない。

本人でさえ本名を呼ばれると違和感がある。

 

 

普段は親や夫でさえ私を本名で呼ばないし、

同級生など、姓も名も正確な読み方を知らない人が大半。

当時は気づかなかったが

私が子どもの頃は苗字さえ正式な訓読みでなく

通常は音読みにして名乗っていたものだから

親戚が(親戚なのに)姓を間違えて認識していた始末。

 

実家は表札を作ったものの出したことがない。

結婚後は表札を作ったことがない。

当然、今まで表札のある家に住んだことがない。

 

今思えば異常なことばかり。

 

そこまで厳重に守られてまで

一体何しにここに来たんだ?って考えるだろう。

 

ここ地球はハイリスク、ならば、生まれなくてもよかった。

それでも生まれてきて内的躁鬱に引き裂かれそうになってる。

 

なんのために?

 

 

 

 

 

そんな私が、

2016年に夫の盾から自立することになり、

2017年には名前による契約が果たされる時が来た。

2018年には顔を晒してみた。名前よりはマシだった。

でも2019年には本名も読み仮名も晒した。

 

これ、とんでもない冒険なんだよ。

 

そして2020年は表札を作る話が出たが立ち消えた。

表札は名前と居場所の特定だからリスクが大きい。

 

けれど、このリスクテイクは必要だろうと思う。

なぜなら・・・もたらされるものがあるからだ。

それを私は受け取らなければならない。

 

 

 

 

もしかしたら

庇護膜を突き破れば疑問の答えがわかるかもしれないから

今年こそ表札を作ってみようと考えている。

 

外側から厳重に守られているならば

内側から突き破るしかないのだから。

 

躁鬱も少しは軽減されたらいいな。

 

死の向こうに憧れてる場合じゃないんだよ。

 

 

 

 

 

私のもう一つの名前、K。一文字(たぶん)。

 

もしそれが本当の名前だったとしたら、

どこまで厳重なんだって話になる。

 

そして、今この人生は仮の人生だってことにも。

 

それは・・・ちょっとイヤだな。。。

 

どこまで思い出せばこの「仮の生活」から

抜け出すことができるのか。

 

 

 

 

 

「1人」ってなんなんだ。